風の強い金曜日に、つれづれ思い出したこと
――長野の盆地と、雨戸と、変わってきた風の話
一年に何度とない、風の日
先週の金曜日、長野市はずいぶんと強い風が吹きました。
外の立て看板がすっ飛んで、街路樹の枝がしなって、松葉屋の小さな森の木々が、へし折れる勢いでうなりを上げ揺れ動いていました。「これは事件だ」と思ったほどです。
店の前の道に立っていると、身体が持っていかれそうなほどではないのですが、街路樹がうねるように揺れていて、普段の長野の空気の静けさを思うと、たしかに違和感のある一日でした。長野では、一年に何度とない一日です。
台風や強風に慣れた他の地域の方々には、大げさな奴だなと思われるかもしれません。けれど、ここに住んでみると分かります。長野市というのは、本当に「風の静かな町」なのです。

四方を山に囲まれた盆地
長野市は、四方を山に囲まれた盆地です。
日本アルプスをはじめとする三千メートル級の山々が、外からの風を遮り、守ってくれている。信州の人間は「本気」でそう思っています。
これは思い込みではなく、気象台のデータでも裏付けられている話のようです。長野地方気象台の公開資料によれば、長野盆地から上田・佐久盆地にかけての地域は、年間の降水量が950ミリ程度しかなく、日本国内では北海道東部に次いで雨の少ない地域だと言います。海から遠く離れていて、周囲を山脈に囲まれているため、台風や低気圧、前線の影響を比較的受けにくい。これが内陸性気候の典型的な特徴で、長野盆地はその代表のような場所なのです。
台風が来るときも、山を越えるうちに拍子抜けするぐらい勢力が弱まりますから、僕らが警戒するのは「風」よりも「雨」や「川」のほうでした。千曲川の氾濫の記憶は、長野に住む人なら多かれ少なかれ持っているものです。けれど、屋根が飛ぶような風や、看板が宙を舞うような風というのは、僕の子どもの頃の記憶にはほとんどありません。
だからかな、と思うのです。家のつくりも、どこか「三匹のこぶた」の兄さん豚の家のように、土と木と紙でできていました。風を防ぐためというより、寒さや雪に備える、というよりも、耐え忍ぶ環境で育ってきたように思います。
(僕の家だけかもしれません。昔の僕んちは・・本当に寒かった)
初めて「本物の風」を知った日
僕が初めて「大型で猛烈な台風」を体感したのは、大学三年生の秋でした。
当時、僕は三鷹に住んでいました。台風が首都圏を直撃した日、大学が休講になったことがあります。校内放送で「早く帰れー」と急かされた覚えがあります。中央線が止まったら家に帰れなくなる、というのが理由でした。
そのときに大学の校舎で感じた風が、いまも忘れられません。
鉄筋コンクリートの建物が、地鳴りを上げるように揺れた(気がした)のです。窓ガラスが内側に押されてたわむような、建物全体が空気の塊に押されているような、これまで経験したことのない感覚でした。風の少ない長野で育った人間にとって、それは恐怖であり、驚きでした。
「風って、こんなに重たいものなのか」
そう思ったのを、覚えています。長野で育っていると、風はあくまで「空気の動き」であって、「物質的な力」というイメージはあまり持っていません。けれど、首都圏で体感した台風の風は、ちゃんと「物体」でした。建物を押し、人を押し、看板や木を倒していく、明確な力でした。
「雨戸」って何?
そう言えば、僕が子どもの頃の長野の家には、雨戸というものがなかった気がします。
「戸を閉めて窓を守る」という発想が、生活のなかにありません。「雨戸」って何? です。
三鷹の木造アパート(山田荘)に住み始めたとき、外を見たら、見慣れない戸袋がついていました。覗いてみると、木製の扉が何枚かしまい込まれている。何だこれは、と思って試しに引き出して閉めてみたら、昼間なのに部屋のなかが真っ暗になりました。
雨戸というものを、初めて知った日です。
少し調べてみて、面白いことが分かりました。雨戸というのは、実は日本の住まいにおいてはそれほど古いものではないのだそうです。「雨戸」という名称の建具が建築の指図(設計図のようなもの)に出てくるのは、16世紀後半から。1587年に完成した聚楽第の大広間が、雨戸という名前を持つ建具の最初の例とされています。
もちろん、それ以前にも風雨から建物を守るための建具はありました。平安末期から鎌倉時代にかけて使われ始めた「遣戸(やりど)」や、鎌倉時代以降の「舞良戸(まいらど)」がそれです。けれど、私たちが現代「雨戸」と呼んでいる、引違いで戸袋に収納できるあの建具が普及するのは、もっと後のこと――江戸時代に入ってからでした。
江戸時代の雨戸は、当初は出入り口、つまり今でいう玄関にあたる部分に使われていたそうです。毎朝取り外して、昼間は家の前に立てかけ、夜になるとまた取り付ける。これがけっこうな手間だったので、しまっておくための「戸袋」が考案されました。素材は、木材、銅板、漆喰のいずれか。一般の長屋住宅は木材、商家や寺院は銅板、粋を売りにする江戸っ子の家は漆喰、と使い分けがあったといいます。
つまり雨戸は、もともと「都市の住まい」の道具だったのです。
長野の家に雨戸が少なかったのは、土地柄として風の必要が薄かっただけでなく、そもそも雨戸という建具が普及していった文化的中心が、人口の集中する都市部だったから――そういう側面もあるのかもしれません。
光をゼロにする家、光を和らげる家
首都圏の家にとって、雨戸とは何だったのか。
風や雨から窓を守るもの。
防犯のための備え。
夏の朝日を遮るもの。
そして、閉めれば光も風も音も、一度ぜんぶ遮断できる装置でした。
横浜の友人の実家に泊まったときに、改めてそれを実感しました。初めて泊まった僕に対して、友人の母親は丁寧に布団を敷いてくれ、雨戸を閉めてくれていました。
雨戸を閉めて寝た翌朝、目が覚めても部屋のなかは真っ暗。「外は朝、部屋はまだ夜」という、長野では起こりえない朝でした。
一方、長野の家のつくりはずいぶん違います。
外側に、まず障子があります。その内側にレースのカーテンがあって、さらにその向こうに分厚いカーテンがある。光をいきなり遮るというより、和らげながら少しずつ取り込んでいくつくりです。朝、目が覚めると、障子越しに薄い乳白色の光がじんわりと部屋に満ちてくる。雨戸のような「オン・オフ」ではなく、グラデーションでした。
これはおそらく、土地の条件が違うのだと思います。
長野は冬が長く、寒さが厳しい。だから家のつくりは、まず「いかに光を取り込んで暖を取るか」が優先されてきました。雪国の家は、雨戸を閉めると逆に寒いし、暗いし、生活が成り立たない。「光をぜんぶゼロにする」という発想自体が、根本的に向いていなかったのです。
一方の都市部の住宅は、密集した家屋同士の間で、隣家への防犯や、夏の強い日差しからの遮蔽のほうが切実でした。「光を遮断できる」ということに、長野とはまったく違う価値があったのです。
つまり同じ「家の窓まわり」でも、何を優先するかによって、まったく違う設計思想が立ち上がっていたわけです。
サッシの進化が、雨戸を消した
ふと気になって、いまの新築事情を少し調べてみました。
おもしろいことに、いま長野で新しく建っている家にも、雨戸のついていないものはずいぶん多いようです。それどころか、これは長野に限った話ではなく、全国的に「雨戸もシャッターもつけない新築」が増えているのだそうです。
なぜか。
理由のいちばん大きいところは、サッシの進化でした。
昔の日本家屋は、気密性の低い木製サッシが主流でした。木の枠とガラスの隙間から、雨風がじわじわと室内に入ってくる。それを外側から塞ぐために雨戸が必要だったわけです。雨戸を閉めると、ちょうど建物の外側に「もう一枚の壁」を足すような効果があった。
ところが、サッシの歴史を辿ると、戦後の日本住宅の窓まわりは劇的に変わっていることが分かります。
日本でアルミサッシの製造・販売が始まったのは1957年。最初はビル用の高級品で、住宅にはなかなか普及しませんでした。しかし1960年代に入ると、プレファブ住宅メーカーが相次いで誕生し、規格化されたアルミサッシが住宅に組み込まれるようになります。1962年、当時の公営住宅にもアルミサッシ付きのコンクリートパネルが採用され、ここから一気に普及が進みました。
そして昭和40年代の半ばには、アルミサッシの全国普及率はほぼ100パーセントに達したと言われています。木製サッシが主流だった時代から、わずか十数年での大転換でした。
さらに2000年代以降は、樹脂サッシが加わります。
樹脂サッシはアルミに比べて熱を伝えにくく、断熱性能で大きく勝ります。北欧やドイツでは普及率が6割を超える地域もあり、日本でも徐々にシェアを伸ばして、現在では戸建ての約4分の1が樹脂サッシになっているという調査結果もあります。
こうして「雨風がサッシから入ってくる」という、雨戸の本来の役割は、ほとんど消えてしまいました。窓そのものが、もう外気を遮断できるようになっていたのです。
いまの住宅は、高気密・高断熱が基本です。窓は二重・三重のガラスで、サッシは樹脂か高断熱アルミ。冬の冷気も、夏の熱気も、雨も風も、窓のところでほとんど止まる。そうなると、その外側にもう一枚「雨戸」を付け加える意味は、論理的にも経済的にも、薄れていくわけです。
もちろん、防犯や台風時の備えとして、雨戸やシャッターを選ぶ家もあります。沿岸部や台風常襲地帯では、いまも必須の装備でしょう。けれど、長野のように元から風雨の被害が少ない地域では、新築時に雨戸を付ける理由がますます見つかりにくくなった。
「雨戸のない家」が長野で増えているのは、土地の条件と、技術の進化が、両側から重なった結果なのだと思います。
鍵を閉めない土地
もうひとつ、長野で雨戸が少なかった背景として、僕が思い出すことがあります。
治安です。
僕が子どもの頃、近所のお宅で玄関の鍵を閉めずに出かける、というのは珍しくない光景でした。「ちょっとそこまで」だけでなく、半日くらい外出するときも、鍵をかけない家がありました。隣近所が互いを見ていて、誰がどこに行ったかが何となく共有されている。そういう土地柄でした。
いまはさすがに事情が違いますが、それでも長野市の犯罪発生件数は、人口比で見ると全国の都市のなかでは低いほうです。防犯のために夜ごと雨戸を閉める、という発想自体が、生活のなかに根づきにくかったのだと思います。
雨戸というのは、ただの建具ではなく、その土地の「気候」と「治安」と「住まい方」が交差するところに立ち現れる文化なのだ――と、調べていてしみじみ感じました。
山に守られた盆地、と暢気に構えていられない時代
ただ、最近の長野は、少しずつ様子が変わってきている気がします。
ここ数年、びっくりするような大雨や強風に見舞われる日が、明らかに増えてきました。1時間で50ミリを超えるような短時間強雨、いわゆる「ゲリラ豪雨」が、夏の風物詩のようになっています。
これは長野だけの話ではありません。気象庁のデータによれば、1時間に50ミリ以上の短時間強雨の年間発生回数は、観測を始めた1970年代後半から現在にかけて、おおよそ1.5倍前後に増加していると報告されています。80ミリ以上の猛烈な雨に至っては、増加率はさらに大きい。日本全体で、雨の降り方が「短時間に、激しく、局地的に」変わってきているのです。
背景には、地球温暖化があると言われています。気温が上がると、大気が抱え込める水蒸気の量が増えます。だから一度の雨で降り得る量も増え、積乱雲が発達しやすくなり、局地的な豪雨や突風が起きやすくなる。これは多くの気象研究者が共通して指摘していることです。
そして突風です。
去年の夏、2025年8月3日、長野県の上田市で突風が発生しました。長野地方気象台が現地に調査に入り、その報告書が公開されています。山に囲まれた盆地である長野県のなかで、こうした突風被害の調査が行われることは、決して頻繁ではありません。けれど、それが起きるようになってきた、ということが、土地の住人としては気になります。
「山に守られた静かな盆地」
という長野の自己像が、少しずつ揺らいでいるのかもしれません。
もちろん、一回の突風で気候が変わったとは言えませんし、長野が突然「風の町」になるわけでもないでしょう。けれど、子どもの頃の僕が信じていた「ここは特別に守られた土地だ」という感覚は、これから先の世代には、もしかしたら同じようには受け継がれないかもしれない。そう思うことがあります。
雨戸のない家が増えていく一方で、強い風や局地的な豪雨の頻度は増えていく。建物の進化と、気候の変化が、ちょうど逆向きに進んでいる。これは少し、考えておかなければならない問題のような気もします。
一本の糸でつながった感覚
先日の強い風の日、店の窓越しに街路樹が揺れるのを眺めながら、いろいろなことが連鎖的によみがえりました。
大学の校舎が地鳴りを上げたあの日のこと。
三鷹の真っ暗な六畳間で、初めて雨戸を閉めた日のこと。
横浜の朝、部屋がまだ夜のままだったときの不思議な感覚。
そして、子どもの頃に過ごした、寒くて静かな長野の家のこと。
風ひとつで、土地と住まいと、自分の記憶が、一本の糸でつながったような感覚です。
家のつくりというのは、その土地の気候や歴史や文化を、何代もかけて少しずつ吸い込んで、形になっていくものなのだと思います。雨戸が要る土地、要らない土地。光を遮断する家、和らげる家。それぞれにちゃんと理由があって、その理由のなかには、何百年もの時間が折り畳まれている。
僕たちが扱う家具も、本当はそういうものだと思います。土地の木で、土地の手で、土地の暮らしに合わせて作られてきた道具。すぐに見えるのは形やデザインですが、そのうしろには、もっと長い時間と、もっと深い理由が、層になって積み重なっています。
来週からは、もう6月です。
穏やかで、きもちのいい風の吹く日が続きますように。

