はじめに
一枚板のテーブルの天板に光が射し、その木目が柔らかに浮かび上がる光景。心がゆるやかにほどけるような感覚。私たちは昔から、木の道具に触れるとき特有の温もりや安心感を味わってきた。大量生産の家具にはない、一枚板ならではの自然な質感。幅いっぱいに流れる木目がつくり出す、まるで森の記憶をそのまま部屋に連れてきたような存在感。そんな一枚板の魅力を、最近になって改めて大切に感じることが増えているように思う。
ここでは、国内産の広葉樹を使った一枚板天板のテーブルについて、その世界観から木材の学術的な違い、塗装や製作技術、さらに林業の問題点まで、専門的な視点で深掘りしてみたい。日々の暮らしを支える家具を見直すことは、暮らしそのものをより豊かに育てていく喜びにつながる。新築やリフォームのタイミングでこだわりのテーブルを選ぶとき、どんな視点があるのか、そのヒントになれば。
一枚板とは何か
一枚板のテーブルと聞くと、「木をそのまま切り出した豪快な板」というイメージが浮かぶかもしれない。じっさい一枚板とは、一本の幹から製材した幅の広い板のことを指す。木と木を接いでいないため、いわば“その木本来の姿”が凝縮されている。厚みも通常4センチ以上のことが多く、手を置いた瞬間にずっしりした存在感が伝わってくる。
一点物であるという特別感もある。同じ樹種でも、節の出方や木目の走り方、耳と呼ばれる樹皮の跡の形状まで一本一本違う。それこそ、森で育った年数や気候が作り上げた個性といえる。だからこそ、自分の暮らしにぴったり合う一枚板と出会うと、それを囲む時間が格別なものになる。部屋の中に、自然が生んだ物語がそのまま横たわっているような感覚だ。
一枚板が好まれる理由
一枚板が多くの人の心を惹きつけるのは、木そのものの力強さや味わい深さがダイレクトに伝わってくるからだろう。これが集成材や合板だと、一見は木目が揃っていたとしても、継ぎ目から人工的な雰囲気が漂いやすい。もちろん、集成材や合板にはそれらの良さもあるけれど、自然の癒やしを求めるとなると、一枚板が放つチカラに勝るものはない。
広葉樹の中でもケヤキやナラ、クリ、山桜、トチなどは、木目が美しく、適度な硬さと重さをもつことから、一枚板の材料として重宝される。木肌の色合いもそれぞれに個性があり、ケヤキなら紅褐色や橙色が力強く、トチなら白く柔らかな質感が好まれる。暮らしの中で使い込むと光沢が増すもの、逆に深みのある色へ変化するものなど、木ごとに経年変化も違うから面白い。
広葉樹と針葉樹の違いとは
国内で流通する木材は、大きく広葉樹(落葉樹)と針葉樹(常緑針葉樹)に分けられる。広葉樹は道管と呼ばれる太い管が木の中を通っているため、重く硬い傾向がある。ケヤキやナラ、クルミ、カエデなどが代表的だ。一方で、針葉樹は仮道管という細い管が水を運ぶので、全体的に軽く柔らかい印象になる。日本ではスギやヒノキが有名で、神社仏閣の建材や内装材として広く使われてきた。

木材の断面
同じ“木”であっても、こうした構造の違いが家具や建材としての使われ方を大きく左右する。硬く重い広葉樹はテーブルやフローリングなど、傷をつけたくない場所に向いている。特にテーブルとしては、日々の食事や作業で道具を置いたり手をついたりといった摩耗が多い場所だ。硬さや密度の高さは耐久性につながり、世代を超えて使える家具になる。
針葉樹は柔らかく加工がしやすい特性がある。表面は傷がつきやすいが、その分、触れたときの温もりや軽さを活かして、柱や壁面、手すりなど、人の肌に触れる部分で魅力を発揮する。ただ、テーブルとして用いるなら、強めの塗装をして傷や水のシミを防ぐ必要がある。インテリアとして楽しむ範囲なら風合いを活かしやすいが、一枚板の迫力を求めるときは、重厚な広葉樹を選ぶ方がしっくりくることが多いと思う。
国内産広葉樹にこだわる意味
国内の山々を見渡すと、クリやケヤキ、ナラ、山桜、タモ、トチ、ケンポナシ、クルミといった広葉樹がしっかりと根を張っている。四季折々に葉を茂らせ、山の景色を支えてきた彼らは、実は家具の材料としても豊富な可能性を持っている。ただし、戦後の拡大造林政策によってスギやヒノキが大量に植えられ、国土の広い範囲が針葉樹の人工林になったことで、広葉樹の森は次第に減少した。しかも広葉樹の扱いは、昔から手間がかかるわりに市場価値が安定しないと見なされがちだった。ひとつひとつの木目や節、樹皮の状態までまちまちなため、大量生産には向かない。だからこそ本当は、職人の手作業や小規模ロットの加工にこそ合うはずなのに、その土壌がうまく整わず、結局輸入材に頼ってしまう状況が長く続いている。
家具として使うなら、木の顔つきや香りまで生かせる広葉樹の魅力は格別だ。しっかり乾燥しさえすれば、適度な硬さと粘り、個性的な杢目を楽しみながら何十年も使える。しかし需要が限定的なままでは、伐採から加工までのコストが高くなりやすい。特に高齢化や採算割れが深刻化している林業の現場では、手間のかかる広葉樹の管理に踏み切る余裕がなかなか生まれない。手をかけなければ山は荒れ、貴重な森林資源がそのまま眠ってしまう。山の保全が進まず、災害リスクも高まる。大径木を育てようにも、長いスパンの投資を負える人が少ない。そうして結局、広葉樹の大部分が家具には使われずに見過ごされてきた。十分に価値を引き出せないまま、森で朽ちていく木もある。魅力的な材が手付かずで消えていく姿を想像すると、もったいなさが胸に迫る。
本来なら、地元の広葉樹を使って家具や建築をつくることは、その土地の風土と連動した暮らしを育む営みになるはずだ。一本一本の木に合った乾燥方法や製作工程を施せば、世界にひとつだけのテーブルや椅子が生まれる。それが地域の新しい産業を生み出し、森に新たな息吹をもたらすかもしれない。いま手にしないと、将来は広葉樹の森が本当にわずかになってしまうかもしれない。そんな危機感が、林業に携わる人たちの中で強まっている。現場の課題は山積みだ。どこかで流れを変えなければ、貴重な国内広葉樹は幻のまま終わってしまうだろう。だからこそ、木を使う側の意識の変化が必要だ。輸入材の安定供給に甘えず、国内の森に潜む力をもう一度掘り起こす。暮らしのなかで木を愛し、育て、受け継ぐ文化を絶やさないために。
地場の広葉樹を使うことは、その木が育った風土をテーブルの上に迎え入れるという意味合いを持つ。例えば北国で育ったナラと、暖かな地域で育ったケヤキでは、同じ樹種でも年輪の詰まり方や色味が違う。産地の山々で何十年、あるいは百年以上かけて太くなった木が、そのまま自宅のテーブルとして形を変え、日々の生活を支えてくれるのは、なんとも味わい深い出来事ではないだろうか。
さらに、国内産材を選ぶことは国内の林業を後押しすることにもつながる。多くの山が人手不足やコストの問題で十分に手入れされず、荒廃が進んでいる現状がある。国産材の需要が高まれば、山に投資を行う意義が生まれ、適切な伐採や植林、間伐が進む可能性も高まる。持続可能な森林づくりを軸に据えた林業が元気になれば、山の美しい景観や生態系を守ることにも結びつくだろう。
広葉樹がテーブル材として優れている理由
広葉樹は硬さと粘り強さが特徴的だ。木目が詰まっているため、手で触れたときの質感が滑らかで、傷つきにくい。生活の中で頻繁に物を置いたり、食器を移動させたりするテーブルでは、それが大きな強みになる。硬いと聞くと扱いにくそうに思うかもしれないが、しっかりと乾燥させれば、反りや割れが起きにくくなり、長持ちする。
一方、広葉樹特有の個性的な杢(もく)や虎斑(とらふ)などの模様が楽しめるのもテーブルにはぴったりだ。ナラの虎斑は明るい光を当てると美しく輝き、トチの縮杢は表面に波紋のような幻想的な表情を浮かべる。こうした“木目の芸術”を、食事やお茶の時間にふと目にするだけでも、豊かな気持ちに包まれる。
一枚板ならではの存在感
一枚板のテーブルには、板の耳と呼ばれる部分がそのまま残っている場合が多い。耳とは、幹の外側の、樹皮を剥いだ部分にあたる。まっすぐ整えたテーブルも作れるが、あえて自然の曲線を生かして、枝分かれしたような形状を残すデザインも人気がある。大きな板をダイナミックに使うので、部屋にどんと置いただけで視線を奪われる。
「もう少しコンパクトな方が日常使いには便利そうだ」と心配になるかもしれない。けれど、一度その一枚板の天板を見てしまうと、インテリアの主役としてこの上ないインパクトを放ってくれるのを実感する。日々の時間の流れとともに、板の表情の捉え方も変わってくる。朝の陽ざしで淡く浮かぶ木目。夕暮れどきに影が伸びると、また違った立体感が見えてくる。その繊細な変化を感じ取るたびに、自然とのつながりを思い出す。
塗装方法の違い
一枚板の仕上げとして代表的な方法に、植物性のオイルフィニッシュとウレタン塗装がある。オイルフィニッシュは、木材の呼吸をあまり妨げず、木の手触りや風合いをそのまま楽しめる。水に弱い面はあるが、こまめなメンテナンスで長く付き合える。傷ついてしまってもサンドペーパーで削ってオイルを塗り直せば、再び美しい艶がよみがえる。
ウレタン塗装は、表面に頑丈な膜をつくるので、汚れや水滴に対して安心感がある。日常的に飲み物や油分がつきやすいダイニングでは、ウレタン塗装を選ぶ方も多い。ただし強い衝撃を与えると塗膜が剥がれる可能性もあるため、そのときは業者に再塗装を依頼するしか方法がない。
例えば子育て中で汚れがつきやすいご家庭だから、手入れを頻繁にできないという理由でウレタン塗装は絶対にお勧めしない。ちいさなお子さんだからこそ、自然な素材に接してもらいたいし、本物を知ってほしい。
ウレタン塗装の懸念点として、塗膜の硬化によってできる「プラスチック状の膜」による風合いの変化。木の呼吸や手触りを損ねるうえ、強い衝撃や熱によって塗膜が剥がれたり白く曇ったりしたとき、部分補修が難しく、再塗装には専門的な作業が必要になる。
健康への観点からは、化学物質や溶剤を用いるため、塗布や乾燥時に揮発性の成分が放出されるリスクもあるため、換気をしっかり行うことが重要になる。
塗装時に使用する溶剤や化学物質から揮発する有機化合物は、施工中や初期の乾燥時に室内に放散され、呼吸器や目、喉に刺激を与える恐れがある。
完成後も微量の化学物質が放出される可能性があり、特に敏感な体質の方には注意が必要となる。特にちいさな子どもに溶剤の匂いに触れてほしくないというのは神経質と片つけられるだろうか。
松葉屋では、一枚板に限らず、製作するすべてのものに自然素材の植物性オイルで仕上げている。ウレタンなどの化学塗料の仕上げについてはお受けしていない。
国産広葉樹家具づくりと林業の問題
国産広葉樹の一枚板は、じっさいに手に入るものが少ない。山から材料を切り出すには、伐採から製材、乾燥に至るまで多くの手間がかかる。さらに山林は所有者が複雑に分かれていることも多く、どこで誰が管理しているのか曖昧なまま放置されている場所もある。林業の担い手不足や採算性の低さによって、せっかくの資源が活かされずに朽ちてしまうケースもある。
一方で、松葉屋の家具職人たちは独自の木取り技術や仕上げ技術をもって、一枚板の魅力を最大限に引き出そうとしている。木取りとは、板のどの部分を表面にするか、どの部位を節として残すかなどを見極める作業だ。自然の造形をそのまま活かしながら、将来的な割れや反りを防ぐ工夫をする。長年培われた伝統的な木工の知恵は、丁寧な面取りや楔(くさび)打ちといった手法にも表れている。
木材の価値を見直し、国産材を選ぶ消費者が増えれば、山に手を入れる意欲がわく。伐って使い、また植えるという林業サイクルが回り出せば、次の世代に美しい森林が残っていく。一枚板を愛用することは、自然環境や地域の産業を支える行為でもある。
暮らしを豊かにする一枚板の使い方
ダイニングテーブルとしてはもちろん、リビングのセンターテーブルやワークデスクとしても一枚板は存在感を放つ。ソファに座ってコーヒーを味わうとき、厚みのある木の天板が目線の下に広がるだけで、なんとも贅沢な気分になる。書き物や手芸の作業テーブルに使うときは、木肌の落ち着いた色味が気持ちを穏やかにしてくれる。
昔から道具には“使い込むほど手に馴染む”という言葉がある。一枚板でもそれは同じだ。オイル仕上げなら自分で磨き上げるうちに、徐々に艶が深まっていく。角が少し擦れて丸みを帯びてくると、木の表情がより柔らかくなる。日々の手入れの過程で、生き物と付き合うような感覚が得られるのも一枚板ならではだ
存在するだけで生まれる物語
一枚板テーブルは、リビングやダイニングの風景を一変させる家具だ。例えば朝の光の中で眺めると、昨日まで気づかなかった木目の奥行きに発見があったりする。夕方、帰ってきた家族がカバンを置いて「ただいま」と声をかけるとき、その音が板にしっとりと吸い込まれるのを感じるかもしれない。季節の花を一輪挿してみると、まるで森の中に小さな花が芽吹いたように見える。
日常の些細な光景に、小さな詩のような物語が宿る。それが、一枚板と暮らす醍醐味ではないかと思う。自宅という限られた空間にこそ、そういった小さな景色を育む余白が必要だと感じる。その余白を生み出すのに、一枚板はとても役立つ存在だ。便利さや機能性だけでは測れない、ゆるやかな豊かさがそこに宿っている。
これから、未来
国内産の広葉樹の一枚板天板に触れると、森の息吹や季節の移ろいを、遠いどこかで感じ取っているような気になる。目には見えなくても、何十年も山の中で大地や雨風に育まれた木であることを想像すると、人の暮らしと自然とのつながりが、案外身近にあるのではないかと思えてくる。
林業に関わる問題はまだまだ山積している。若い担い手が不足し、広葉樹の活用が進まない現状があると聞いた。それでも、一枚板のテーブルを求める人が増えてくれば、国内の広葉樹をきちんと活かす方向へ力を注ぐ意義が高まるだろう。伐って使い、植えて育てるサイクルが回り出せば、山は息を吹き返し、家具職人の技術もさらに磨かれていく。
日々の暮らしを細やかに慈しむ視点を私たちは持っている。料理やインテリア、家族の団らんなど、生活の彩りを大切にしながら、その背景にある自然や社会の仕組みもしっかり感じ取る力が本来あると思う。一枚板のテーブルは、そうした感性を豊かに受け止めてくれる家具だ。ふとしたときに、その木目に指先を滑らせてみてほしい。板の奥深くに秘められた時間の層が、じんわりとこちらに語りかけてくるだろう。
森から切り出された木が、部屋の真ん中で新たな物語を紡いでいく。それを囲む私たちが、時間を共有し、記憶を刻む。そういう暮らしの在り方が、一枚板には込められているのだと思う。心が疲れたとき、一枚板の凹凸や木目の流れを眺めると、まるで大樹が背後で支えてくれているような気がする。あたたかな安心感とともに、ただそこに置かれているだけで、私たちの暮らしをゆったりと包み込んでくれる本物の暮らし道具だ。
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2025年 2月22日(土)~ 3月23日(日)
日本の山で
長い年月をかけて育った広葉樹たち。
森の記憶を刻んだ一枚板が
テーブルとなって並んでいます。