こんにちは、松葉屋家具店スタッフの池田です。
「木材の追跡可能」から生まれる価値 香山由人さんインタビュー
続きです。
前回の記事はこちら↓
木材を余すところなく使うことから、その使い方、
現在の木材業界の分業に至るまでの歴史など。
さらにお話が続きます。
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香山:地産材で有名な吉野林業は、
1本の木の中でもスペシャルな部分から
一番いいもの作って、他の部分も全部活用してきたんですよね。
その一つの技として出てきたのが「割り箸」です。
割り箸なんて、ほんとに製材したとこの
一番端っこの白太の部分で、普通、木工品とか建築に
使えるものではないんですけど、素直な木目できれいじゃんってことで、
じゃあお箸にしたらいいって思い付いたわけですよね。
そういう形で、実際にスペシャルな製品を作ってる世界ってのは、
全部使い尽くすって考えは持ってます。
どこにどれだけ価値が出せるか考えていますね。
滝澤:広葉樹の家具については
そういうジャンルがなかったですけど、
もしかしたら岐阜あたりの古いメーカーだと
昔からやっていたかもしれないですね。
香山:やってたと思います。特に、天然の広葉樹の場合は、
でっかい1本の木から取れる大トロの部分ってちょっとしかないんです。
だけど、他ももったいない。
でも全部薪ってわけにはいかないねということで、
例えばブナで言えば、
一番よく使われてたのは、本当の日常の道具ですよね。
今でこそあまり使わなくなりましたけど、
今でもこれは欠かせないんだよってカネモクさん(製材・乾燥の業者さん)に
聞いたのは、工事のときにコンクリートを最後に平に慣らす道具で、
あれはブナが一番いいからって左官屋さんに注文をもらうそうで。
滝澤:それは、先の平な部分なんですかね。
香山:そう。トンボみたいな平なところを、
あれブナで作るが一番いいんだって、
今でも注文をもらうって製品見せてもらいました。
そういうブナの持ってる柔らかさの部分を生かしたんですよね。
もうちょっと芯の部分は硬くなるんですけど。
多分、昔から木材に関わってきた人たちっていうのは
そういうことよく分かってて、全部捨てるんではなくて、
全部使うんだってやってきたと思うんです。
もちろん、燃料として使う部分がかなり多いですけどね。
ただ、ほんとに細かい専門の世界の話で、そんな使われ方をしているなんて、
知らない人がほとんどの話ですね。
滝澤:そうですね。本当に専門の話ですね。
例えば、僕の父親ってより前ぐらいは、
地元の材料で地元の職人が作って、
収めるっていうのは当たり前で、
そもそも遠くから材料持ってくるっていうことも難しかったんだと思うんですけど。
香山:考え方もないしね。
滝澤:それが当たり前だったんですよね。ただその後ベニヤが出てきたりして。
「木材の分業化と、全部やる工芸」
香山:新しいシステムができて変わっていったんです。
昔から木材の世界って、用途によって分かれていて、
家具木工の人は、自分の家具木工の世界を知ってる。
大工は大工のこと知ってるけど、
全部分かってるのは多分、製材所だけだったんじゃないですかね。
そんなこと説明してもしょうがないから、
それぞれのお客さんのところに用途別に切り分けて売ってたんです。
滝澤:なるほど。効率的にしようとすると分業化はどこの世界でも起こりますね。
例えば漆の世界なんかでも分業ですけど、
最近はろくろ、下塗り、上塗りを全部一人でやりますっていう人が
現れたりして。
揺り戻しみたいな現象がありますね。
家具の世界も完全に分業化してしまったものが、
全部ではないにしても、また戻るっていうようなことに
なってきているのかなと思います。
香山:そういう方向出てきてますよね。
実際、家具の世界って、分業化が結構早かったと思うんです。
ある程度まとまった量を生産することが多分、昔からあったので。
その分業の最たるものが製材で、
製材だけは製材業者がやってたんですよ。
それも、大昔は木を切る木こりが倒した後に、
大きなノコギリで手で引いたんですけど、
あんまり大変だっていうことで、丸太で出して、
そこで初めて機械を使った製材所が生まれたのが
多分、100年ぐらい前で、その頃からもう分業化が
どんどん始まっていたんじゃないかと思います。
ただ、工芸の世界では全部やるんだっていう。
それも多分、1980年代ぐらいですかね。
岐阜にオークヴィレッジができた頃から工芸を見直そうって考え方が出てきて、
その人たちは全部関わるってことをやりますという感じだったんじゃないですかね。
滝澤:そうですね。生活も全部、自給自足にしようっていう考え方でもやっていましたね。
香山:結局あれはアメリカのヒッピーカルチャーがルーツなんだけど、
全部やるんだっていう見直しが起きて、生活スタイルまで含めてやってくって。
滝澤:うまくいくかどうかは別ですけど。
僕たちの世代はそれを見ながら、
ずっとオークヴィレッジの稲本さんみたいな人たちとかが
やってきたことに、憧れがあったのかもしれないですね。
香山:一つの思想ですよね。それが事業として
どうなってるかってことは、
ちょっと別の部分もあるんだけど、憧れみたいなものがあるんでしょうね。
この50年間で何が起こってきたかというと、
木材はほぼ輸入するものだと思ったんです。
それは流通の力ですよね。
要は、欲しいものをどうやって手に入れようかって考えたときに、
丸太じゃ要らない部分が多過ぎるから、ほんとうに欲しい部分、
パーツだけ、誰かがまとめて仕分けしてくれるのがいいな。
というのが結局、ずっとさかのぼっていってるうちに外国になったわけです。
外国からいくらでも木が買えるようになって、
それでも50年前ぐらいだと、まだ丸太で買ってたわけです。
でも、1990年代、2000年代は、製品の、かなりきれいに仕分け、
グレーディングができた材料が外国から入ってくるようになって、
おかげでもの作る人たちはすごく楽になったんです。
滝澤:そうですね。電話一本でいいですもんね。
香山:電話一本で、しかも、完全に品質等級の分かったものが間違いなく届くんので。
滝澤:最高に楽なところに行ってしまいましたね。
話が少し戻りますが、木こりと、製材は本来は一体だったんでしょうか。
香山:ほんとうに大昔は区別がなかったって言われてます。
つまり、大きな丸太を出してくることができなかったので、
江戸時代くらいまでは山で加工して、
少しでも軽くして出していたようです。
木を倒す人、加工をする人で分業して、
江戸のような都市には丸太ではなくて角材になって届いたわけですよね。
それがおそらく分業の始まりですけど、
明治になって都市が発達すると住宅がすごく変わったわけですよね。
太い梁や柱の造りの家じゃなくて、もっと細い木を作って
小さな家をいっぱい建てるってことになったので。
大正時代ぐらいに帯のこってすごいものができて機械製材ができるようになったんです。
滝澤:発明ですよね。
香山:発明ですよ。最初は山の奥まで電線を引っ張れないから
水車で帯のこ回して製材をしていたのが多分、大正時代ぐらいですよね。
今で考えたら本当にささやかな分業ですけど、
山で切った木を目的別に分けて、細い木は垂木にしようとか、
この中ぐらいのやつは柱にしよう、木の板にしよう、
そんなことも多分そのぐらいの時代から始めたって言われてますよね。
滝澤:そういう場合、乾燥ってのはどうされてたんですかね。
香山:乾燥は全ての工程にとても時間がかかるので、自然と乾いちゃうんですよ。
要するに、全てが手作業だから。
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次回、木材の乾燥の話へ続きます