手織り絨毯の歴史:最古の絨毯(パジリク絨毯)と手織り技術の歴史

ギャッベの話をはじめましょう
松葉屋家具店の店主、滝澤善五郎です。

 僕がギャッベに出会って、いつの間にか20年近くの時が経った。

その間、たくさんの人がギャッベを手に取り、
その模様を眺め、毛足の柔らかさに手を滑らせた。

あるときにはカシュガイの織り子さんたちと言葉を交わし、
彼女たちの指先から生み出されていく織りの技巧に感嘆し、
広い空の下で遊牧する暮らしの匂いを感じた。

一本一本の羊毛の糸が絡まり、織り込まれていく。
そこに宿る物語がある。

遠く離れたイランの大地で生まれた一枚が、
長野の冬の寒さを受け止め、家族の足を温める。
そんなつながりを、何度も何度も見てきた。

これまで2000人近くの方が、
僕たちの選んだギャッベを暮らしに迎え入れてくれた。

そのたびに思う。
この絨毯の上で、どんな時間が流れていくのか。
どんな話が生まれ、誰の足音が響くのか。

そんなことやら、聞きかじったことをぽつぽつと書いていこうと思う。
ギャッベのこと、手仕事のこと、
そして僕たちが大事にしている暮らしのこと。

僕と同じ、ギャッベがスキでスキででたまらない、あなたへ贈る、
5回目は「パジリク絨毯」の話。

 

はじめに

部屋の窓辺を光がかすめていきます。
カーテン越しに差し込む光は柔らかく、足元の敷物に目が留まる。
その時に、僕は遠い昔の草原を行き交う遊牧民の姿を思い浮かべていました。
そんな思いを抱かせてくれるのが、手織りの絨毯です。物の向こう側に人の息遣いを感じ、遥かな時の流れが織り込まれているように思えます。

ギャッベのように素朴な手触りと温かな色合いのある絨毯には、人々の暮らしと物語が凝縮されていると感じるのです。

今回は、現存する最古の絨毯とされる「パジリク絨毯」と、そこから広がる手織り絨毯の歴史をお話ししたいと思っています。冬の寒い朝に、ふかふかのギャッベを踏みしめるたびに、この敷物に染み込んだ長い歴史を感じずにはいられません。あの時代の人々も、僕たちと同じように、足元の温かさに幸せを見出していたのでしょうか。

パジリク絨毯――永遠の氷の眠りから目覚めた宝物

ある夏の日、僕はテレビで「世界で一番古い絨毯」として紹介された、パジリク絨毯の特集を見ました。赤茶色を基調としたその図柄は、えも言われぬ優美さが漂っていて、目を離せませんでした。だって、想像もつかないほど昔の人々が、こんなに精巧で美しいものを織り上げていたとは!

パジリク絨毯は、シベリアのアルタイ山脈一帯に広がる永久凍土の中で、長い長い眠りについていたそうです。発掘されたのは、1940年代の終わり。ロシアの考古学者セルゲイ・ルデンコ氏が、スキタイ族の墳墓(クルガン)を調査中に偶然見つけました。気温が低く凍結状態だったおかげで、通常なら土に還ってしまうはずの織物が、ほとんど原型をとどめたまま蘇りました。

その大きさは、縦およそ1.83m、横およそ2.00mほど。
羊毛で織られていて、驚くべきは、その結び目の細やかさです。僕たちが普段見るギャッベやキリムと比べて、格段に高密度。まるで巨匠が一本一本丁寧に筆を運んだかのような繊細さがあります。そして、文様には馬や騎馬兵、シカ、グリフィンなどが描かれ、赤や黄色、青など古代の染色で彩られています。

パジリク絨毯、紀元前5世紀。シベリアのパジリクで発見されました。

これほどの技巧と意匠は、遊牧民だけでなく、当時のペルシアやアルメニアなど定住文明の影響が濃かったのでは、とも言われています。古代ペルシアの宮廷絨毯を彷彿とさせる姿に、スキタイの人々と周辺の文明とのつながりを感じる。そういった時代背景を想像すると、思わず胸が高鳴ります。

氷から甦り、エルミタージュ美術館へ

この貴重なパジリク絨毯は、現在ロシアのサンクトペテルブルクにあるエルミタージュ美術館に収蔵されています。

かつてこの都市は「レニングラード」と呼ばれていました。ソ連時代に訪れた人にとっては、エルミタージュ美術館という名称とともに、「レニングラード」という街の思い出が色濃く残っているかもしれません。

エルミタージュ美術館は、壮麗な建築とヨーロッパを中心とした数多くの美術品・文化財で世界的に知られた場所。絨毯だけでなく、エジプトからローマまでの古代遺物や、ルネサンス期の絵画など、多岐にわたるコレクションを誇ります。その中でパジリク絨毯は、きわめて古い時代の手織り作品として異彩を放っているのです。

40年近く前、
まだ仕事を始めたばかりの頃、僕はソ連時代のレニングラードとモスクワを訪ねていました。

当時はまだ旧体制下の厳かな雰囲気が漂い、レニングラードでは運河の街を、モスクワでは赤の広場を記憶しています。

エルミタージュ美術館の壮大な宮殿のような美術館に足を踏み入れ、展示されている圧倒的な芸術品に、言葉を失い、残念ながらバジリク絨毯を見ることはできませんでした。

あまりに多いコレクションの数々。もしパジリク絨毯に対面できたならば、思いがけない古代世界との出会いに胸が高鳴ったことでしょう。

サンクトペテルブルクへ行く機会があれば、今度こそ日程に余裕を持って(たぶん一週間でも足りない)、美術館の広大な展示エリアを巡り、この世界最古の絨毯を間近に見たい。最先端の保存技術によって、長い年月を乗り越えたパジリク絨毯の姿を堪能できれば、手織り絨毯ファンにとって、かけがえのない体験となるでしょうね。

 

手織り絨毯のはじまり――草原に生きた人々の必需品

パジリク絨毯の発見は、凍り付いた時間を溶かしてしまったかのようです。けれど、糸を紡ぎ、染め、結び目を一つひとつ織り上げる技術の起源は、それよりもっと遠い過去にさかのぼる。なぜなら、人間ははるか昔から羊毛やヤギの毛を使って衣服や敷物を作っていました。

遊牧民が住む厳しい寒さの草原や砂漠では、外の冷気を遮断し、床に敷いて暖かさを確保できる毛織物が欠かせなかったからです。僕はかつて、中央アジアの方から来た留学生と話をする機会がありました。

彼女が言うには、「小さな頃、おばあちゃんたちが毛を梳いて糸を紡ぎ、野草で色を染め、それを一枚の絨毯に仕立てるのをずっと見ていた。」そうです。まるで家族の歴史そのものが、その糸に紡ぎ込まれているようだ、と教えてくれました。部族の暮らしの中で絨毯は単なる道具ではなく、祈りや愛情のしるしでもあったのでしょう。

ペルシャの繁栄と絨毯工房――芸術を守り育てた王たち

絨毯が時代とともに高度な芸術品へと昇華したのは、ペルシャ(現イラン)の王朝時代のことと言われています。特に、16~17世紀のサファヴィー朝では、国王が積極的に職人たちを支援し、王立の工房が次々と誕生しました。

僕が初めてペルシャ絨毯の華やかさを体験したのは、大学生の頃。海外美術を紹介する展覧会で、金糸銀糸を織り込んだ壮麗な絨毯を目にして、言葉を失ってしまいました。まるで宝石箱の蓋を開けたような、そしてそこに広がる庭園のような、そんな幻想的な空気が絨毯の上に漂っていました。

ペルシャ絨毯の世界に近づいてみると、藍、茜、ザクロの皮など、天然染料が織り成す彩りの豊かさに魅了されます。大きなメダリオンや流れるような唐草模様。これらは宮廷文化だけでなく、部族や町ごとに少しずつ違いがあります。タブリーズ、ケルマン、カシャーンなど、地域によって柄の雰囲気や色合いに特色が生まれました。そうした多彩さこそ、ペルシャ絨毯の奥深さ。

トルコからコーカサスへ――幾何学文様と民族のシンボル

ペルシャと並んで重要な絨毯産地が、トルコやコーカサス地方です。あの街道を想像すると、砂埃舞う商隊がシルクロードを行き来して、文化や技術が交じり合った様子が目に浮かびます。

特にトルコ絨毯は、そのほとんどがトルコ結び(左右対称結び)で織られ、

強度が高く、壊れにくいのが持ち味とも言われます。16世紀のオスマン帝国時代には、官営工房で手掛けられた高級な絨毯が宮廷やモスクを飾り、ヨーロッパへも多く輸出されました。西洋絵画にも描かれている「ホルバイン・カーペット」や「ウシャク絨毯」は、鮮やかな赤い地に幾何学文様が浮かび上がり、その大胆さに惹きつけられます。

そして、コーカサス地方へ目を転じると、そこでもまた遊牧民から都市住民まで、多種多様な織りが花開きました。アゼルバイジャンやアルメニア、グルジアなど、場所ごとに特徴的な文様や色彩があります。赤と青がシャープに交差するような図柄を見ると、ああ、この地の人々も自分たちのアイデンティティを絨毯で表現しているのだな、と感じるのです。

アジアの東へ――キリムとギャッベ、そして僕の足元

手織り絨毯と一口に言っても、その織り方にはいくつもの違いがあります。
たとえば、キリム。これはパイル(毛足)のない平織りタイプで、シンプルな幾何学模様が特徴的です。遊牧民が荷物を包む袋として利用したり、テントの敷物や掛け布に用いたり、生活の中に深く根ざしてきました。

40年近く前に購入した、僕のキリムです。より荒々しくに扱われても応えてくれます。踏まれ、ソファーに被せられ、車に積んで野山でシートの代わりに敷かれ、汚れたら風呂場で足踏み洗いされ、だんだんくたくたに柔らかくなってきました。

もう、人生の相棒ですね。

そして、皆さんおなじみのギャッベ。僕と家族も今、リビングに一枚敷いています。部屋に馴染む柔らかな色合いと、厚手のふかふかした感触。いつも座り込んで本を読んだり、ちょっと昼寝してしまったり。部屋を、一番安らぐ場所にしてくれているのは、もしかしたらこのギャッベの存在かもしれません。

 

 

わが家のギャッベと子どもたち

わが家のギャッベと子どもたち2

ギャッベはイランのカシュガイ族など、南西部の遊牧民が昔から織り続けてきた絨毯です。淡いベージュや深いレッド、森の緑を思わせる色が魅力で、そこに小さな動物や植物のシルエットがぽつんと描かれたりもします。デザインに大きな法則はなく、織り手の感覚やその日の気分、願いなどが自然に織り込まれていく、という話を聞いたことがあります。僕はその自由さに惹かれ、今日もゴロンと横になって、ふと遠くの空を見上げたりするのです。

絨毯を彩る自然の力――植物染料の穏やかな色合い

手織り絨毯の鮮やかな色彩は、古くから植物などの天然染料によって生み出されました。ちょっと想像してみると、赤は茜、青は藍、黄色はザクロの皮や花などから抽出するといいます。そんな自然からの恵みを糸に乗せる作業は、とても根気が要ることです。

でも僕は、その手間の中にこそ、命の営みや祈りのようなものを感じます。茜で真っ赤に染めた毛糸を夕日に透かして見ると、人間だけでなく土や水、そして太陽まで、この色づくりに関わっているのだと思えてくるのです。

合成染料が普及して、派手な色合いが手軽に得られる時代になった今でも、天然染料の優しい発色を求める声は絶えません。きっとそこにあるのは、自然とのつながりや、少しずつ色が変化していく経年変化への愛おしさ。今朝見た絨毯の赤と、10年後に見る赤のトーンが少し違っていても、その変化ごと大切に育てたいと思うのです。

受け継がれる伝統――物と心が織り成す世界

こうして振り返ると、手織り絨毯は長い歴史の中で、絶えず世界のどこかで織られ続けてきました。それは、床を飾る美術品であると同時に、日々を生きるための必需品でもありました。パジリク絨毯のように豪華な模様が散りばめられた敷物もあれば、家族の願いや祈りが何気なく描かれた部族絨毯もある。

その多様性や奥深さこそ、手織り絨毯の魅力なのだと思います。僕たちがギャッベを愛でるとき、その毛の一本一本には、遥か昔から続いてきた織り手たちの想いや工夫が詰まっているのです。何かを編み込みたいと思う気持ち、誰かを温めたいと思う気持ち、そんな素朴な願いが長い年月をかけて育まれてきたのでしょう。

余韻――遠い国の草原へと、心をほどいて

ちょっと目を閉じてみると、音のない凍てつく草原に響く風の唸り声が聞こえてくるようです。遠い昔の人々が寒さを和らげるために敷物を広げ、大切な模様や色を写し取っていた姿が浮かび上がります。

手織り絨毯の世界に触れるとき、ただの物ではなく、誰かの足跡や想いを受け取っているのだと思ってしまう。いま足元に敷かれているギャッベも、いつかは次の誰かの手に渡って、語り継がれていくのだろうか。

もしかしたら僕たち自身が、絨毯の一つひとつにきっと刻まれている物語を、どれだけ大切に抱えられるかにかかっているのかもしれないのだけれども。

光がまた、カーテンの隙間から差し込む。薄絹を抜ける微かな朝日とともに、ギャッベの上で手のひらを広げてみます。そこに眠る昔の息吹に、そっと耳を澄ませると、今日もどこか遠い国の風の音、羊を追う男たちの声、羊の鳴き声とかが聴こえてくる気がする。

日常に取り入れるギャッベやキリムは、遠い昔と私たちをつなぐ身近な存在と言えるでしょう。草木染めの織り糸に滲む温かさは、今を生きる私たちの暮らしをふわりと包み込んでくれるようです。手織り絨毯の優しさと、そこに秘められた長い歴史。それらに思いを馳せるとき、足元に広がる世界がいつもより奥深く、やわらかいものになるのではないでしょうか。

パジリク絨毯が語りかけるのは、2500年という途方もない時間の彼方で紡がれた糸の物語。その結び目の一つひとつに宿る声。

今、僕の足元にある「我が家のギャッベ」
100年200年、あるいは1000年後? 時間が経つことによってどう変わっていくか。見届けることはできないのは残念だが、想像するだけでも心踊る。このうえない楽しみ。

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