20年近く前、僕がはじめて「ギャッベ」という言葉を耳にして、触れたとき、どこか懐かしくて、少し切ないような感覚に包まれた記憶がある。
遠い砂漠の風が綿埃とともに届けてくれた耳鳴りのようでもあり、あるいは温かい家の中で人々が囲む柔らかな毛織物の手触りを感じさせるものでもあった。
ギャッベとは、イラン南西部に暮らす遊牧民の手による毛織物。
一言で「毛織物」と言ってしまうと、その奥に眠る部族の世界観や、厳しい自然のもとで育まれた暮らしの息づかい、大切な祈りの想いまでを覆い隠してしまうかもしれない。
今回は、ギャッベに息づく文化的意義をより深く、深く掘り下げてみたい。
一枚のギャッベを前にするとき、いつも思う。
そこには遠い国の風や光、作り手の暮らしの中の喜びやつらさ、悲しみ、そして祈りにも似た何かが宿っている、と。
僕はその一枚の中に描かれた模様や色合いに触れるたびに、自分の暮らしや人生をもう一度見つめ直すきっかけをもらっている。
第一章:部族文化の表現としてのギャッベ
ギャッベの故郷を想う
イラン南西部。
広大な土地に遊牧民がテントを張り、その時々で移動しながら羊を飼い、生活必需品を自らの手で織り上げてきたという歴史がある。
伝統的なギャッベを織るのは、主にカシュガイ族やルリ族といった部族の女性たち。
朝早く起きては羊の世話をし、食事の準備をし、子どもをあやしながら、合間に毛糸を紡ぎ、織機の前に腰を下ろす。
自然とともに生きるこの生活が、ギャッベの隅々に染みこんでいるように思う。
僕が知っているギャッベの図案には、幾何学的な模様や動植物を連想させるモチーフが多い。
しかし、それはあくまで「こう織れば正解」という型があるわけではなくて。
暮らす場所や気候、そこに根ざす信仰や家族の物語が、1枚1枚のギャッベを違う表情に変えているのだと感じる。
色彩と文様が織りなす語り
赤。青。緑。黄。
草木や根、土からとれる天然の染料を使うことで生まれる色合いには、光を吸い込み、吐き出すような独特の深みがある。
それらの色は、ただ目を楽しませるだけじゃなく、部族の歴史や願い、自然への畏敬を映し出しているのではないだろうか。
赤が好きな部族は生命力や情熱を求めているのかもしれない。
青が多いギャッベは、空や水、旅の無事を祈る心を映しているのかもしれない。
時に、大胆に、そして時に控えめに。
まるで今織っている女性のその日の気分や、空模様が映りこんでいるようでもある。
そして文様。
鹿のような動物が走る姿だったり、家や樹木、人のシルエットが織りこまれたり。
どこか素朴で、子どもが描いた絵のような不揃いさがあるのも魅力だ。
でも、その不揃いさこそが部族の誇りであり、家族や自然との結びつきを写し取っているように思えてならない。
手触りが語りかけること
実際に手のひらをそっと乗せると、毛足の長さや密度、厚みが、まるで雪の結晶のように一つとして同じものがない。
一見すると似たデザインでも、手触りや織りの細かさは違う。
その差が、部族や家族、そして作り手ひとりひとりの感性を映しているのだろう。
人の手で紡ぎ、人の手で染め、人の手で織る。
機械織りとはまるで違う、その不揃いで温かな手触りは、長い歴史の中で築かれた部族の文化と呼吸を伝えてくれる。
第二章:生活必需品としての役割
ベッドにも、敷物にも、そして壁掛けにも
ギャッベがもともと、遊牧民の日常生活を支える大切な道具だったこと。
それを初めて聞いたとき、とても驚いた。
やわらかくて丈夫だから、地面に敷いてベッド代わりにしたり、テントの床に敷いて椅子代わりにもしたりする。
冷たい砂や岩肌から身体を守ってくれるだけじゃなく、砂漠の夜の厳しい冷え込みをしのぐための保温効果もあるのだという。
現代では、インテリアとしてソファの上にかけたり、壁に飾ったり。
テーブルの上に小さく敷くと、それだけで部屋に温かみをもたらしてくれる。
けれど、その背景には、何世代も前から続く「寝床でもあり、家族の団欒の場所でもある」というギャッベの機能があるのだ。
遊牧という暮らしとギャッベ
もともと遊牧民は、羊を追いかけながら季節によって住む場所を変えていく。
移動する家としてテントを張り、道具を最小限にして暮らす。
このシンプルな生活の中で、ギャッベは欠かせない存在だった。
寝起きする場所も、家族が集まる場所も、子どもが遊ぶ場所も、ギャッベが一枚あれば十分に役割を果たしてくれる。
厚手のギャッベなら、冬の間はしっかりと寒さを防ぎ、夏でも羊毛が湿度を吸ってくれるから涼しく感じることはギャッベを使って身をもって感じているし、 不思議だけれど、自然素材が持つ調湿・保温効果には日々驚かされている。
そして、羊毛の油分が適度に残っていると、水分や汚れにも強い。
僕らの暮らす日本でも、四季がはっきりしている分、ギャッベの持つ吸湿性や保温性は魅力だ。
ただのインテリアじゃない、日常を共にする相棒のように思えるのは、ギャッベがそうして部族の生活を守り支えてきたからなのだろう。
第三章:精神性と祈りの込められた絨毯
織り手の想いと祈り
ギャッベを織る女性たちは、織機の前に座りながらときどき祈るように糸をかける。
誰かの健康を願ったり、家族の安全を願ったり、旅の無事を願ったり。
絨毯がどんどん育っていくように、想いも一緒に育っていく。
「あの遠くの山をイメージしたから、この色に染めた」
「あのとき幼子が喜んでいた姿を思い出して、可愛らしい花柄を入れてみた」
そんな言葉は、きっと声に出されることはないのかもしれない。
だけど、織り込まれた模様や色を見ると、どこかに作り手の息遣いが潜んでいるようで、僕の胸を温かくする。
祈りとギャッベの模様
ときにギャッベには、小さな窓や門のような模様が繰り返されることがある。
それを見たとき、僕はふと「これは、別の世界へつながる扉のようだ」と想像をめぐらせる。
遊牧民は自由に移動をしながら、でもどこかで目に見えない世界とつながっているような感覚で暮らしているのかもしれない、と。
自分たちの住む土地を守る神や精霊への敬意や感謝の想い。
太陽や星々がもたらす生命の循環への畏敬の念。
そういった信仰は、日々を紡ぎながら染みこみ、絨毯に形として定着していく。
だからギャッベの文様には、「この動物は吉兆」「この形は魔除け」といった意味づけが自然に含まれるという。
それは宗教的な教義というより、ずっと昔から続く部族の慣習や祖先の知恵。
祈ることが、彼女たちの日常だったのだと思う。
織り手と見る者の交差点
僕たちがギャッベを部屋に敷いて、その上で過ごすとき。
一枚の織物を通じて、遠い国の女性たちの祈りや想いと、不思議な対話をしているのかもしれない。
「この赤い部分には、どんな気持ちが込められているのだろう」
「この小さな模様は、家族の幸せを願っているのかな」
そんな風に想像をめぐらせて、暮らしの中にちょっとした物語を忍ばせる。
それこそがギャッベの真の力なのかもしれない。
第四章:ギャッベに宿る「時間」と「記憶」
一枚の織物が刻む年月
昔、部族の女性は一枚のギャッベを完成させるのに何ヶ月、あるいは一年以上の時間をかけることがあったという。
糸を紡ぐための羊毛を育てるところから始まり、毛を刈り、洗い、紡ぎ、染めて、ようやく織り始める。
その間に季節はめぐり、子どもは成長し、羊の群れも違う土地へと移動していく。
時間が流れ続ける中で、ギャッベは少しずつ形を成していく。
まるで生き物のように成長していくからこそ、完成したときには、作り手自身もまた、その成長の証を見つけるのかもしれない。
母から娘へ、そして孫へ
ギャッベを織る技術は、母から娘へ、そして孫へと引き継がれていく。
部族の女性たちにとって、それは特別な儀式のようでもあるようだ。
お母さんのそばに座って、手つきや糸の扱い方を盗み見しながら覚え、いつしか自分のギャッベを織り始める。
そのとき、娘のギャッベには母とは違う個性や感性が息づく。
でも、土台となる技術や手順には、母や祖母の影が確かに存在する。
僕はその姿を想像するたびに、同じような風景が世界のどこにでもあるのではないかと思う。
日本でも、祖母が編み物をし、母がミシンで服を縫い、それを横で眺めながら育った子どもがいた。
そんなふうに技術や記憶が継承されることこそが、人の営みの根底にある大切なものなんだろう。
使い込まれるほどに馴染む
一枚のギャッベを長く使っていくうち、色褪せたり、羊毛がやわらかくなったりして、最初とは違う表情を見せ始める。
最初の鮮やかさももちろん美しいけれど、時間が経ったからこそ滲み出る味わいは、アンティークな家具や古い道具がもつ雰囲気によく似ている。
古いギャッベの毛足に触れると、そこに人々の足音や笑い声、家族の思い出が染みこんでいるように感じることがある。
傷やシミすらも、かけがえのない「記憶の証」として存在していて、それを大切に受け継ぐことがまた、ギャッベを手にする喜びでもある。
第五章:現代の暮らしとギャッベ
インテリアから感じる安心感
今、ギャッベは世界中で「デザイン性の高い手織りラグ」として人気を集めている。
モダンな部屋にも合わせやすいミニマルなデザインから、伝統的な柄を忠実に再現したものまで、実に多種多様。
ただ、流行やデザイン性だけを理由に選ぶのではなく、そこに込められた意味合いやストーリーを知った上で部屋に迎え入れると、日常が少し違って見えてくることがある。
朝起きて、足を降ろした先がギャッベの柔らかさだったら、それだけで一日のスタートがどこか穏やかになる。
「物」と「心」のつながり
ふと、「どうしてギャッベにここまで惹かれるのだろう」と自分に問いかけてみるときがある。
それは、ギャッベという“物”が、ただの物ではなく、人々の“心”を織り込んだ道具だからなのかもしれない。
モノが溢れる時代にあっても、本当に心が動かされるのは、どこか温もりを感じる物や、誰かの手仕事が見える物だ。
ギャッベは、現代の効率化や大量生産とは対極にある「ゆっくりとした時間」が詰まった存在。
織り手と使い手が遠く隔たっていても、羊毛と天然染料が作り出す風合いがその距離を埋めてくれるような気がする。
祈りと日常の狭間
祈るように織られたギャッベは、僕たちの日常に優しく寄り添う。
ソファの上にかけるのもいいし、壁に飾るのもいい。
そしてときどき、ふとその模様を見つめて、遠い土地の空気を思い出す。
日常のどこかで、僕らはいつも何かを祈っている。
家族の健康だったり、仕事の成功だったり。
それは派手に言葉にせずとも、当たり前に胸の中で繰り返される願いでもある。
ギャッベは、その祈りと日常を結びつけるための「ちいさな扉」なのかもしれない。
第六章:ギャッベとこれから
変わりゆく時代の中で
イランの遊牧民の生活様式も、時代とともに変化している。
牧畜の形態が変わり、農業や都市部への移住が増え、若い世代はテントでの暮らしを離れることもある。
その流れの中で、伝統的なギャッベを織り続ける人々は減少しつつあるのかもしれない。
一方で、世界中でギャッベの美しさや物語性が注目され、需要が高まっている。
その需要によって、新たにギャッベづくりに参入する人や、伝統を守ろうとする動きが生まれ、部族の人々が自らの文化を見直すきっかけにもなっているようだ。
自分らしいギャッベを見つける
ギャッベは芸術品でもあり、生活の道具でもある。
だから、飾って楽しむだけでなく、ぜひ普段から使ってみてほしい。
踏みしめるほどに毛足が馴染み、色合いも少しずつ変わっていく。
その変化は、自分の人生の歩みとも重なるように感じられるかもしれない。
選ぶときは、色や柄だけでなく「なぜこの柄が好きなのか」「どんな気持ちで使いたいのか」を、少しだけ自分に問いかけてみるのもいいだろう。
部族の女性たちが糸を織るときのように、ゆっくりと気持ちを紡ぎながら、運命の一枚と出会う瞬間を味わえたなら、それはきっと何ものにも代えがたい喜びだと思う。
第七章:終わらない余韻の中で
部族文化の表現としての美しさ。
生活必需品としての実用性。
そして精神性や祈りのこもった織物。
ギャッベには、遠い国の壮大な景色と、そこに暮らす人々のささやかな日常が、分厚い羊毛の奥深くに眠っている。
その豊かさに触れるたびに、僕は日本での暮らしを見直す。
あわただしい日常をほんの少しだけスローダウンさせ、祈るように、願うように、一歩ずつ日々を歩む。
部族の女性たちが織り上げる世界は、僕たちにどんな物語を運んでくれるのだろうか。
彼女たちが糸に込めた祈りは、時代を超えてどんな未来を結びつけるのだろうか。
その答えは、完成した一枚のギャッベの向こう側で、今もそっと織り続けられているのかもしれない。
だからこそ、部屋の片隅に敷かれたギャッベを見つめながら、僕らはときどき、その遠い風の音に耳を澄ませてしまうのだ。
…結局のところ、本当の意味でギャッベに込められた秘密を知ることは、容易ではない。
でも、その「わからなさ」こそが、僕たちをさらに奥へ誘うのだろう。
遠い国の空気と、祈りと、時の流れ。
そして、僕らの部屋の中に漂う静けさと、足元を暖めてくれる羊毛のぬくもり。
それらすべてが交差する地点で、ギャッベは今日も不思議な息づかいを続けている。
まるで、まだ織り終わらない物語の続きを、待っているかのように。
僕らはその声に、いつまで耳を傾け続けられるのだろう。
そして、どんな想いを糸に込めればいいのだろうか。
そんな問いが、答えにならないまま、ずっと胸の中でざわついている。
それこそがギャッベという織物に触れるたびに残る、優しくも切ない余韻なのかもしれない。
だから、今日もまた、僕はギャッベの上に腰を下ろして、静かに目を閉じる。
その中に広がる無数の色と模様を、指先でなぞりながら。
いつか来るだろう次の朝の光を想いながら。
…そして、また一歩、物語の続きを探しにいくのだ。